逢引



海岸沿いにそそり立つ崖に向かって男は歩いていた。

一応小道があるが、場所によっては岩に掴まってよじ登らなければならない。

上が平らになった大きな岩に登った男は、立ち止まって空を見上げた。

空は青く高く、千切れた真綿のような流れ雲が浮かんでいる。

歩いている時は感じなかった海から吹き付ける風が心地よい。

男は片手で額を伝う汗を拭うと、背中に背負った袋を担ぎ直し、また歩き始める。

午後も早いこの時間、日差しは強いが影になるような木はない。

辺りは見渡す限り緑の茨と紫のヒースの絨毯だった。

やがて男は崖っぷちに辿り着いた。

(ここから落ちたら、きみのいる場所に行けるのか?)

暫くの間、男は魅せられたように、遥か下の怪物に切り裂かれたようなギザギザの岩に這い上がる波を見つめる。

波は後から後から勢いよく岩に打ち寄せては泡立ち、飛沫を上げる。

男は背中の袋を下ろし、中から淡い色合いの陶磁器の壷を取り出した。

(オフェーリア、約束どおりに来たよ)

片手を上げて風の向きを確認した男は、壷を開けると中の物を掴み、その手を海に向かって突き出した。

サラサラサラ…男の指の隙間から灰色の砂が零れ落ちる。

風に舞った砂は水面に触れるとあっと言う間に消えてなくなった。

男は壷が空になるまでその動作を繰り返す。

空になった壷をまた袋に入れた男は、岩を伝って海岸に降りていく。

岩に掴まって、転ばないように体を支えながら、少しずつ海に近づいていく。

(もうすぐ、きみに会える)

海岸に降り立った男は靴を脱ぎ、両手に靴を持ったまま砂利の上を歩いていく。

(あと少しだ)

波際から数歩の所にある岩の上に男は持っていた袋を下ろした。

続いて粗い木綿のシャツを頭から脱ぐと岩の上に投げ、ズボンと下着も同じようにする。

裸になった男は海に向かって歩いていく。

打ち寄せた波が男の足首を舐めた。

この季節でも水は冷たいが、男は気にならないように水の中を進んでいく。

腰まで水に浸かった男はゆっくりと目を閉じた。

波が唸り声を上げ、男の体に体当たりを繰り返す。

「会いたかった」

ザブンと頭から潜る。

男は波を超えて泳いでいく。

男の頭の中に花のような笑顔が浮かび上がる。

「オフェーリア」

水の上に仰向けに浮いて空を見上げながら男は思い出す。

あれは寒い冬の日だった。

男は期限の決まった仕事に追われ、仕事部屋に閉じこもり、何日も家に戻っていなかった。

ある晩、夜食を持って様子を見に来た妻。

雪の道を歩いてきた妻に寒くないかと問うと、急いで歩いたから汗かいたと笑った。

寒さに頬と鼻を赤くして自分を嬉しそうに見つめる妻に、疲れも飢えも何もかも吹っ飛んで、その場で抱き締めて机の上で求めてしまった。

妻の体は確かに温かかったが、その手の冷たさに飛び上がったのを思い出す。

小さな、まるで子供のような可愛らしい手。

男の愛撫に応える時も絶対に爪を立てたりしない優しい手。

「どんなに冷たくてもいいから。俺に触れておくれ」

波がチャプンと男の耳の辺りを撫でていく。

よく晴れた春の休日。

あれはまだ婚約して間もない頃だった。

折角よいお天気なんだから外で食事がしたいと言う彼女と二人森へ出かけた。

矢車草や白詰草、金鳳花等が咲き乱れる野原で彼女が作ってきた弁当を食べた。

腹が一杯になると、男はポカポカと暖かい日差しに眠くなり、草の上に敷いた毛布の上に横になったのだった。

ふと目が覚めると、白詰草で冠を編んでいた筈の彼女が隣で眠っていた。

長い睫が影を落とす丸みを帯びた頬やふっくらとした桃色の唇を見ると男は我慢ができず、彼女を起こさぬように注意しながら優しく口付けたのであった。

初めは額に。

次は瞼に。

それから頬に。

そして最後に唇に口付けると彼女は目を覚ましてしまい、それでも離さずに何度も触れてからやっと離すと、彼女は目に涙を一杯浮かべて、男の腕にしがみついてきた。

柔らかくしっとりとした彼女の唇。

濡れて焦げるように熱い彼女の舌。

男は両手で掬った海水を何度も自分の顔にかける。

「君に触れたい」

初めて彼女に会った時、男はひと目で魅了された。

たっぷりとした黄金色の髪は波打って背中に流れ、空色の瞳は好奇心に満ちて大きく見開かれていた。

彼女は若くて、何にでも笑顔で立ち向かっていく度胸と快活さを持っていた。

真面目に話している時も頬や瞳に笑いが見え隠れし、つられて男も始終微笑んでいた気がする。

彼女は声も美しく、その柔らかな暖かい声で話しかけられると、それだけで鼓動が高まるのだった。

男は足の周りに冷たい流れを感じる。

「後生だから。焦らさないで」

無我夢中で求婚して、彼女が結婚を承諾した時は天に昇る気持ちだった。

幸福だった。

妻を腕に抱きながらも尚このような幸せがこの世に存在することが信じられなかった。

神は幸福過ぎる者を好まないというのは、本当なのだろうか?

健康だった妻が去年の冬にひいた風邪を拗らし、肺炎であっという間に逝ってしまった時、男は運命を呪った。

葬式が終わってから何週間も何もする気になれず、部屋に閉じ篭ったまま泣いたりウトウトしたりして過ごしていた。

毎日それを繰り返しているうちに自分が生きているのか、死んでいるのかも分からなくなった。

それでも冬が終わり、暖かい春の日差しが部屋に入って来た時、男は生きていく気になった。

そして妻の遺言を思い出した。

ある朝、最期が近いことを悟ったのだろう、妻は男を枕元に呼んだ。

口元に耳を近づけなければ聞こえないような弱々しい掠れた声で妻は話した。

自分が死んだら灰にして、結婚した年の夏に行ったあの海に撒き散らして欲しいと言うのだった。

男は泣きながら反対した。

「そんなことをしたら君に会いに行けなくなる」

「私は海に同化されるの。だから暖かくなって、あなたが海に入れば私と触れ合えるわ」

「愛し合えるのか?」

「うん。今は無理だから…約束する」

「オフェーリア、愛してる」

「私も…愛してるわ。あなたと一緒になれて幸せだった」

妻の目元から一筋流れた涙を男は唇で拭い、すっかり荒れて色褪せた唇に口付けた。

妻は微笑むと目を閉じ、それからもう話すことはなく、明け方に息を引き取った。

「オフェーリア、きみを感じる」

暖かい流れが男の腰の周りに纏わり付く。

男はそっと目を閉じて、彼女の感触を逃さないようにする。

自分の下で悶える妻の悩ましい顔を思い浮かべる。

「…あぁ」

呻き声を上げた男は沈みかけ水を飲んでしまい、慌てて足が立つ所まで泳いで戻った。

顔には苦笑いが浮かんでいる。

「君の愛し方はちょっとばかし危険だね」

男は海から上がり、服を置いてある岩まで戻った。

すぐには服を着ずに岩に座って海を眺めている。

太陽に照らされて冷たかった体が徐々に暖まってくる。

体が乾くと男は服を来た。

「また明日」

海に向かって呟くと、男は崖をよじ登り、村に向かって歩き始めた。

(どんな姿のオフェーリアでも俺は愛せる。大丈夫、俺は生きていく)

頭に浮かんだ妻に笑顔を返すと、男はしっかりと地面を踏みしめ歩いていった。





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