吟遊詩人



吟遊詩人




ある晴れた夏の夜だった。

日が暮れる前から人々は続々とその庭園に集まって来ていた。

都会の喧騒を逃れ日々の疲れを癒しに来た人々だ。

赤い李が沢山実った果樹園や鮮やかな花が咲き乱れる花壇から離れた奥まった隅にその薬草庭園はあった。

中央には噴水があり冷たい水が丸い池に流れ落ちている。

そして中心から十字型に区切られた庭には、アザミ、アンジェリカ、カンゾウ、マヨラナ、アルニカ、セイバリー、チャービル等の薬草が爽やかな香りを放っている。

庭の奥には小さな天幕が張られていた。

その前には、既に数人の招待客が良く冷えた飲み物を片手に雑談している。

そして、その脇には板を敷き詰めた俄か作りの舞台があり、そちらを向いて椅子が並べられていた。

舞台の上には四角い小さな椅子と傍らには楽器が置いてある。

兄に付き添われたアイリーン・オシャナハンは、前の方の左端の席に腰掛けると辺りを見回した。

アイリーンは、見かけると思わずその丸みを帯びた薔薇色の頬を摘みたくなるような愛らしい娘だった。

赤みがかったブロンドの髪を三つ編みにして頭に巻きつけ、髪よりも濃い色の長い睫に縁取られた大きな青い瞳を輝かしている。

笑顔を浮かべるとふっくらとした頬にはえくぼが刻まれた。

瞳と同じ色の衣装を着けた体は、少女らしくほっそりとしている。

伯母と一緒に来る予定の親友ユリシアの姿はまだ見えない。

兄のロデリックは妹を椅子に座らせると、仲間達の方に行ってしまった。

アイリーンは兄の後姿を目で追いながら小さく肩を竦めた。

数年前から庭園の持ち主であるフィッツパトリック卿の奥方が主催しているその催し物は、近辺の者達にとってとても楽しみなものだった。

招待客の中に子供の姿はなかったが、その年齢は様々だった。

「気持ちのいい夕べだこと」

斜め前に座った女性が振り返ってアイリーンに微笑んだ。

「そうですね。去年は雨でしたから」

アイリーンも鳥の羽で拵えた扇で風を送りながら頷いた。

見上げると澄んだ高い空は薄い藍色と薔薇色に染まってとても美しい。

刻一刻と辺りは暗くなってくるのに、何故かわくわくと待ち望む気持ちになる。

早く始まらないのかしら?

辺りを見回していたアイリーンは、庭園に入ってくるユリシアと中年の婦人の姿を認めると笑って手を振った。



「昔々、コルケイの町がヴァイキングの度重なる攻撃を受けていた時代、港の近くに古い修道院がありました。
既にそこには修道士は住んでおらず、ひび割れた石の建物は廃墟となっていたのです。
しかし、修道院の裏の墓地の中に深緑色の蔦で壁を覆われた塔が立っていました。
その塔は襲撃されて崩れ落ちても火をかけられても、夜が明けると何事もなかったかのように聳え立っていたのです。
長い髪を靡かした美しい女が窓から覗いているのを見たと話す者があり、女の歌声を聞いたという者も現れました。
やがて港町の人々は『呪われた塔』と呼び恐れて、修道院に近付くものはいなくなりました。
ある日、甲冑に身を包み重い剣を背中に背負った騎士が嵐に遭い、日が暮れてから修道院に辿り着きました……」

アイリーンは、物語の女のように長い金髪を背中に流した女の口元を一言も聞き漏らすまいと見つめていた。

女の口調は淡々としていたが、その深みのあるすこしばかり掠れた声を聞いていると、頭の中に物語の光景がありありと浮かび上がる。

崩れかけた修道院の植物の模様を刻まれ優雅なアーチを描いた柱や、墓場に並んでいる繊細な彫刻を施したずんぐりとした十字架を思い浮かべて少女はそっと目を閉じた。

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拍手の音で我に返ったアイリーンは、ホッと息を吐いて隣に座ったユリシアと微笑み合った。

余韻に浸る間もなく、ハープの調べが沈黙を破った。

語り手は音楽家でもあったのだ。

透き通るような音が既に深い紺色に染まった空から零れ落ちてくる。

突き出た部分におどけた顔の人魚の姿が彫り込んである楽器の弦に、女の指はまるで恋人を愛撫するように優しく時には激しく触れている。

今は黒く見える芝生の上にフィッツパトリック卿の召使が、火を点した小さな蝋燭を浮かべたガラスの器を並べていく。

演奏が終わると女は舞台を次の語り手に譲った。

「古代から伝えられた宗教とキリスト教が共存していた頃、世界の果ての海辺の小屋に一人の女が住んでいた。
女は魔女と呼ばれ、村の者に恐れられていた。
女は自分の歳を知らなかった。
ただ長い長い間生きてきたことだけ分かっていた。
村人は普段はできるだけ関わらないようにしていたが、病人が出たりすると人目を忍んで魔女の力を借りに来るのであった。
難破船の残骸が波際に打ち寄せられると、真っ先に浜辺に向かい役に立ちそうな物を取って行くことも、彼女が村の者に嫌われている理由のひとつだった。
ある日、嵐の後の海辺で打ち上げられた板切れを拾っていた魔女は、砂に半分程埋まった大きな箱に気がついた。
掘り出して石で錠前を壊して蓋を開けると、中には息も絶え絶えとなった布に包まれた赤ん坊が入っていた……」

低い豊かな声は抑揚をつけて、魔女と魔女に救われた赤ん坊の物語を語っていく。

語り手はぱっとしない赤ら顔の中年男だったが、話を聞いているうちに魅力的に見えてしまうから不思議だ。

男は物語を幾つかの章に区切り、間に片手にバウランを持ちリズムを打ちながら、ゆったりとしたバラードを歌った。

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夜の庭園は感激した観客の割れるような拍手で包まれた。

それからも次々と語り手が舞台に上がり、皆を夢の世界に誘い出す。

物語の中では全てが美しく思われるわ。

でも、今夜は現実の世界も美しく感じられる。

私には一生を誓ってくれる恋人も、命をかけて守ってくれる騎士もいないけど。

アイリーンは小さな溜息を吐いた。

後1、2年もすれば、親が決めた知らない男の人と結婚しなければならないのだ。

子供っぽいと兄達がからかうように夢見がちな少女は、会ったこともないその男が運命の人となるかも知れないと期待していた。

もし違ったとしても、私を救い出してくれる王子様が現れるかも知れないわ。

しかし、愛の言葉を囁く男は容易に想像できたが、男の顔を思い描くと兄の悪友の少しばかり人を馬鹿にしたような笑顔が浮かび慌てて頭を振って打ち消した。

辺りは既に暗闇で、地面に点々と灯った明かりが幻想的な空間を醸し出していた。

物語に出てくる魔術師のような見事な髭を生やした老人が語り終わると、アイリーンはユリシアに合図をして席を立った。

蒸し暑いというほどではないが、少しばかり重い空気に爽やかな風が気持ち良い。

二人の少女は小声で話しながら天幕の方に向った。

途中、ユリシアは知り合いの娘に呼び止められた。

どうやら二人はずっと連絡を取り合っていなかったらしく、話が長引きそうだった。

挨拶をしてから傍に立って待っていたアイリーンは、ユリシアの腕を軽く叩いて言った。

「ここで待っていて。飲み物を取ってくるわ」

足首程まである柔らかい草の上を歩いて行くと、野草の茎に服の裾が絡まった。

何て気持ちの良い夜なのだろう。

空を見上げたアイリーンは思わず息を呑む。

まるで空に散りばめられた宝石のような星が降ってくるような気がしたのだ。

これが現実なのか夢なのか分からなくなりそうだわ。

アイリーンはうっとりとした微笑みを浮かべながら呟いた。



天幕の入り口は開け放され中から明かりが零れ出ていた。

中に入った少女は眩しそうに目をしばたかせた。

白い布を被せたテーブルには花が飾られ、果物や菓子を載せた皿があった。

着飾った女性が数人その前で木の実を摘みながら話している。

女性達に軽く頭を下げると、テーブルの横に控えている召使に近付いた。

「どうぞ」

差し出された飲み物を受け取ったアイリーンは天幕を後にした。

明るい所から急に暗い所に出てきたので、暫く立ち眩みでもしたように目が見えなかった。

それでも両手にコップを持ったまま友人の待っている方へそろそろと歩き出した。

その時突然、誰かに肩を掴まれたアイリーンは小さな悲鳴を上げてコップを取り落とした。

「誰?」

「悪い! そんなに驚かせるつもりはなかった」

これはキリアン・マックコーマックの声だ。

随分前から聞いていなかった声が直ぐに誰のものか分かってしまうなんて、自分自身に腹が立つ。

アイリーンはそっけなく挨拶の言葉を呟くと、屈んでコップを拾おうとするが、男に腕を引っ張られた。

「何をなさるの?!」

「アイリーン、君に話がある」



胸が期待にドキドキと高鳴り、アイリーンは心の中で自分自身を叱咤する。

この人に話しかけられても絶対無視してやると決めたじゃないの。

キリアンは少女の腕を掴んだまま、ずんずんと果樹園の方に引っ張っていく。

いつの間にか空高く昇った月が辺りを煌々と照らしていた。

ほんのりと赤みを帯びた林檎のなっている木の下に来ると、男はやっとアイリーンの腕を放した。

辺りは柔らかな銀色の光に包まれていた。

足元の草むらで虫の鳴き声がする。

暫く口篭っていたキリアンは意を決したように話し出した。

「アイリーン、君は僕のことが嫌いか?」

少女が何も応えないので、自分を嘲笑うかのように口を歪ませて続ける。

「そんなに眉を顰めて顔を背けるほど嫌われているのか?」

男の声が哀愁を含んでいるように聞こえて、思わず顔を上げた。

「君があまりにも愛らしいからいけないんだ。怒らせるのを承知でちょっかい出してしまう」

アイリーンの瞳が見開かれる。

影を宿した男の顔は美しく精悍で迂闊にも見惚れてしまう。

その時、急に目の前が暗くなり、唇に暖かいものが触れた。

頭にカッと血が上り目が潤んでくる。

こんなことするなんて!!!

酷いわ、からかうにも程がある。

身を翻して逃げようとしたが、手を掴まれてしまう。

「アイリーン、君が好きだ」

「嘘だわ!」

いつもいつも私を苛めて泣かした癖に。

「嘘じゃない。明日、君のお父様に話しに行くつもりだ。でもその前に君の気持ちを聞きたくて」

「私は貴方のことなんか……」

「優しくするから。一生大事にするから、お願いだから断らないでおくれ」

哀願するような男の声に思わず頷いてしまいそうになり、アイリーンは下唇を噛んだ。

思い切ってキリアンに近付くと爪立ちになって男の頬に唇を押し付ける。

「明日ちゃんと約束を守ってくれたら……」

そして、唖然とした男に悪戯っぽい笑みを見せると、服の裾を絡げて薬草庭園の方に駆け出した。



「……やがて森を出た娘は、お城に連れて行かれました。
お城では侍女たちが娘の汚れて破れた服を脱がし、風呂に入れると長い髪を梳り、金銀の刺繍をした目の覚めるような衣装を着せました。
娘が広間に足を踏み入れると、皆は感嘆の溜息を漏らしました。
王はそんな娘の姿を見ると王座を降りて歩み寄り、娘の華奢な手を取りました……」

あの人は騎士でも王子様でもないけれど……

夢見るような微笑を浮かべてアイリーンは考える。

明日になったら夢は醒めてしまうかも知れないけれど。

吟遊詩人は肩に寄り掛からせたハープを奏でながら語り続ける。

物語が終わり、笛とバイオリンがハープに加わると陽気なダンス音楽が始まった。

「ほら、帰るぞ」

いつの間にか隣に来ていた兄が耳元で囁いた。

親にはダンスが始まるまでという約束で来させてもらっているのだ。

アイリーンは席を立つとユリシアの手を握った。

「ねえ、明後日の午後、家に来れない?」

ユリシアが許可を得るように傍らの伯母の顔を見た。

「昼過ぎに用事があるから、戻ったら連れて行ってあげましょう」

アイリーンは嬉しそうに頷くとユリシアに囁いた。

「もしかしたら……今夜ここで耳にしたのより驚くような物語を聞かせてあげることができるかも知れないわ」

夢でも構わない。

アイリーンは魔法にかかった庭園をもう一度ぐるりと見渡すと、兄の後について門の方に踊るような軽い足取りで歩いて行った。



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