東海の王女



東海の王女




―― 1 ――

「嫌です。そんなこと!!」

その娘は頬を林檎のように紅潮させて怒っていた。

まだ幾らかあどけなさの残る顔には、エメラルド・グリーンの瞳が挑発的にキラキラと輝き、赤い木の実のような可愛らしい唇を歪めて、怒りに小鼻を膨らませている。

赤と緑の石を嵌め込んだ髪飾りで留めて背中に流している髪は、光の具合によっては殆ど白く見えるブロンドだ。

長い髪が解けかかって顔に被さるのを煩そうに撥ね退けると、ブルブル震える両手の拳をきつく握り締め、トンと靴を床に打ち付ける。

娘は襟と袖口に毛皮をあしらった薄い茶色の服に見事な刺繍をした赤い帯を締めている。

そして彼女の身分を示す鷹の形をした金の耳輪と細かい渦巻き模様の描かれた腕輪をしていた。

「何故そんな勝手に!!!」

「父に向かって勝手とは何だ!!! おまえはこの国の王女なのだぞ。年頃になったら国の為に婚姻を結ぶのはあたりまえのことだろう!!」

まだ老人と呼ぶのには幾らか年の足りない男は、腰掛けていたどっしりとした肘掛け椅子から立ち上がると手にした杖を床に打ちつけた。

白いものの混じった縮れた栗色の髪と立派な髭を蓄えた赤ら顔の逞しい男だ。

大きな鉄のブローチで肩に羽織った毛皮のマントを留め、頭には冠をかぶり、娘と同じように金の耳輪と肘ほどまである腕輪をしている。

男は苛立ちを込めた眼差しで娘を睨みつけ、杖を振り上げた。

その姿に娘は怯んだように磨いた木の床の上を後退る。

二人のいる広間の壁は白樺の皮で覆われ、王座の後ろには見事な角を生やしたヘラジカの頭部が掛かっていた。

男は傍に控えていた兵を二人呼びつけると命じた。

「娘を部屋に閉じ込め、婚礼の準備が整うまで一歩も外に出られないように見張っていろ」

男達は恭しく頷くと、両側から王女の腕を取り広間から連れ出そうとした。

「嫌っ!! 放してよ!!!」

だがいくら抗っても鍛え貫かれた兵の腕力にかなう筈はなく、足が床から浮き上がり引き摺って行かれてしまう。

狭い階段を上がり自分の部屋に放り込まれるという時、娘は一人の兵の脛を蹴っ飛ばすことに成功した。

男は悲鳴を堪えるように息を吸い込んだが、娘の腕を放すことなく部屋の中に入ると、二人して暴れる娘の体を抱き上げ部屋の隅にある寝床に幾分乱暴に降ろした。

その後二人は足早に部屋を出て行き、重たい木の扉が閉じられガチャンと錠前が下された。

扉の前には殺された警備兵の代わりに別の二人の兵が立つのだろう。

娘はうつぶせになって泣いていたが、暫くすると気を取り直したように起き上がって涙を拭いた。



娘は寝床から降りて窓に駆け寄ると、窓際に置いてある長持ちによじ登り、雨戸を開いて金具で留めた。

ぴゅうと音を立てて冷たい潮風が小さな部屋に入ってくる。

娘は寒さを感じていないように髪を靡かせ、窓枠に肘をついて外を眺めていた。

春の日差しはまだ弱いが、それでもじっとしていると日の光の暖かさを肌に感じることができた。

塔の窓からは、天気の良い日には東海に浮かぶ島々が望めたのだ。

娘は夢見るような瞳で空に浮かぶ雲のように見える島々を眺めながら呟いた。

「お願いです。女神様、どうかどうかあの人にもう一度会わせてください」

あの人とは、ある晩、突然娘の部屋に現れたあの男のこと。

オルムとウドラいう名の二人の警備兵を殺した男のことだ。

父上が私を守る為につけた熟練の兵士達。

私が城を抜け出さないように……

私が親の知らないうちに恋人を作ったりしないように……

彼らは王女と一言も口を利くことを禁じられていた。

娘は自分の父親の命令に盲目的に従う男達を憎んでいた。

二人は娘が朝起きた時から夜床に就くまで傍にいた。

そして娘が眠っている間、その部屋の前で交代で見張りに立っていたのだ。

だが、「蛇」と「蜥蜴」の名を持つ二人の兵は、自分達の前に突然姿を現した男に抵抗もせず一撃の下に倒れた。

男はゆっくりと剣を治めると、驚愕のあまり目を見張って口も利けない娘に近付いた。

「怖がらないでください。貴女に危害を与えるつもりはありません」

よく見るとまだ若い男だった。

大柄な金髪の男に見慣れている娘には、男の姿は大層物珍しく思えた。

すらりとした体躯に黒い髪に浅黒い肌、彫りの深い高貴な顔つきだが目が鋭かった。

「いつか」

男は娘の腰を引き寄せると身を屈ませて耳元に囁いた。

「いつかは貴女を花嫁としてこの腕に抱こう」

娘は声も出せずに男の纏っている爽やかな糸杉の香りに包まれていた。

丁度その時、異変に気付いたのか外から慌しい物音が近付いて来て、男は娘に優しく口付けると、身を翻して部屋から走り去ったのだった。



男は盗賊か、あるいはローマの密偵だったのか?

絶対に自分の夫となれる人物ではないことは分かっていた。

だが、恋愛経験などない乙女は、自分の気持ちをどうやって封じたら良いのか知らなかった。

それから毎晩寝床に横たわると、男の低い声と冬の夜のような黒い瞳、そして熱い接吻を思い出し眠れぬ夜を過ごすようになった。

愚かな私は無遠慮な闖入者に恋をしてしまったのだ。

名も知らぬ黒い髪と黒い目を持ったあの男に……

王女には母親も年の近い兄弟もおらず、相談できる相手は子供の頃から一緒の侍女のマジャしかいない。

扉の開く音に振り返った娘は、大きな盆を持った薔薇色の頬に明るい目をした若い女に微笑んだ。

「姫様、お食事でございます」

「マジャ」

女はてきぱきと小さな机の上に料理を並べていく。

「さあ、どうぞ。温かいうちに召し上がれ」

頷いて机の前に腰掛けると、手を伸ばしてライ麦の乾パンを取った。

焼きたてのようでまだほんのりと温かい。

娘は塩漬けの小魚を摘んでパンに乗せると一緒に口に運んだ。

燻製にした鹿の肉を海辺に生える薬草で煮込んだ料理が湯気を立てている。

マジャは小さな水差しからビールを角杯に注ぎ入れた。

「ねえ、マジャ。私の話を聞いてくれる?」

ビールを飲み干した女主人の問いに侍女は手を前掛けで拭くと頷いた。

「勿論ですとも。何のお話でしょうか?」



「私、父上の城を逃げ出したいの」

女はさほど驚いた顔もせずに娘の話を聞いている。

三年前、初潮が訪れるまでは自由に城の中を歩き回り庭で遊ぶことが出来た。

あの頃はまだ母上も生きておられた。

楽しい日々がずっと続くのだと思っていたのだ。

気が強くお転婆だが、利発で朗らかな王女様は皆の人気者だった。

マジャは女主人の話に同情するように頭を振り相槌を打った。

「城の者は皆、姫様をお気の毒に思っていますよ」

「皆元気なのかしら? 一緒に木登りや舟遊びをしたオロフやヘンリック達は? 漁師の娘のヒルダとインゲボルグはどうしているのかしら?」

「皆姫様と同じように大きくなって親の仕事を手伝うようになっていますよ」

娘は頷くと、泣くのを堪えているように眉間に皺を寄せて呟いた。

「私の仕事は大人しく父上の言うことを聞いて、見も知らぬ男の許に嫁ぐことなのね」

「姫様」

マジャは持っていた皿を机に戻すと、俯いて涙を堪えている娘の肩に手を置いた。

「ねえ、マジャ。もし私が城を逃げ出すことを決めたら、誰にも何も言わないで手伝ってくれる?」

女は考え込みながら答えた。

「そうですね。でも、その時は私も一緒に行きますよ。ここにいて王様の逆鱗に触れるのは嫌ですし」

娘はやっと唇を綻ばせると恥ずかしそうな微笑を浮かべた。

「そうね。マジャだけは私の味方よね」





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