私のバレンタイン



私のバレンタイン





 寒空に角笛の物悲しい音色が響き渡った。

合図だわ。

ジュリアは長いスカートの裾を絡げると、隠れていた納屋から飛び出し、庭の柵を乗り越え、栗林に向う小道を駆け下りていった。

少女の頭をぴったりと覆った白い頭巾の後ろに結んであるリボンが風に靡く。

時折干からびた枝や茨の棘に服の裾が絡まったが、構わずにどんどん走っていく。

雨が降らなくて本当に良かったわ。

木靴の下で乾いた地面がぽくぽくといい音を立てる。

途中で野原を横切っていくマリアの白い頭巾が目に入ったが、立ち止まらずにずんずん自分の道を進んでいく。

いくら仲がよくても、今日は友達と一緒に行動する訳にはいかないのだ。

風はまだ冷たいが、どことなく春の兆しを感じる。

木々の蕾はまだ固いが、温かい風が一吹きすれば一斉に綻びるだろう。

村の入り口の道端に立っている石の十字架の前を通った時、チュンチュンと楽しそうな鳥の囀りが聞こえてきた。



 栗林は村を出て坂を下り、小川を越えて暫く南の方角に行ったところにあった。

秋には栗拾いに来た村人達で賑わうが、他の季節は静かな場所だ。

ジュリアはハアハアと息を弾ませながら、薄暗い栗林に足を踏み入れた。

湿った落ち葉や毬が敷き詰める地面の上を歩けば、木靴の音もせず、辺りはシンと静かだった。

少女は立ち止まると、キョロキョロと辺りを見回した。

ええと、あれはどこかしら?

誰にも壊されていなければいいのだけど。

記憶を頼りに進んでいくと、隅の方にある栗の木の下に大きな茨の茂みが見つかった。

小動物が住処にしていたのか、真ん中には穴が開いているのだ。

栗拾いに来た時にこの最高の隠れ処を見つけたのだ。



 だけど、どうやってこの中に入ったらいいのかしら?

服を破いたらお母さんに叱られてしまうわ。

しかしその時、急に黒い巻き毛と輝く青い瞳が頭に浮かび、ジュリアは唇を噛んで肩を竦めた。

初めに木靴を脱ぐと穴の中に放り、木の幹に飛びついた。

子供の頃から村の男の子達と飛び回っていたお陰で、木登りは得意である。

だが、木の上から茨の茂みに飛び込んだことはなかった。

暫く躊躇していた少女は、目を瞑るとピョンと茂みの真ん中を目指して飛び降りた。

目を瞑ったのが悪かったのだろう、バランスを崩して茨の中に前向きに倒れてしまい、顔と手に感じた痛みに思わず上げそうになった悲鳴を飲み込んだ。

どうやら顔に引っかき傷ができてしまったようである。

手の甲にできた傷を舐めながら、ジュリアは土で汚れたスカートを見下ろし、泣きたくなった。

こんな姿になってしまって、私を見つけた人はがっかりするわね。

どうせ、初めから美人ではなかったのだけど。



 少女は木靴の上に腰を下ろすと膝を立てて蹲った。

どの位ここにいればいいのだろう?

昨日のことだった。

牛の乳を搾り終わって桶を腕に提げたジュリアが牛小屋から出てくると、偶然、村の若い男達がどこからか戻ってくるところに出会ったのだ。

ジュリアを見ると男達は口を噤んだのだが、その前の一言は彼女の耳に入ってしまっていた。

「勿論、ヤンはマリアを探すんだろ?」

幼い頃、いつもジュリアはヤンと一緒だった。

仲が良かったかと言えばそうでもないだろう。

口喧嘩はしょっちゅうだったし、何でも二人で競い合って、張り合っていた気がする。

でも、ジュリアが一番信頼していたのはヤンであり、困った時に助けを求めるのもヤンにだった。

ヤンも祭りなどで女の子を選ばなければならない時は、いつもジュリアを選んでくれたのだ。

それが、いつからか、自分は女の子達と一緒に過ごすようになり、ヤンは同じ年頃の男の子達と遊ぶことが多くなってしまった。

そして、今年18歳になる二人は、他の多くの若い男女と一緒に結婚相手を見つける聖バレンタインの祭りに参加することになったのである。



 ここ数年で、ヤンは急に背が伸び体つきも逞しくなった。

そして、以前から可愛い顔をしていたのだが、男らしさも加わり大層魅力的な男となっていた。

その上、最近は父親の仕事を手伝っていて、鍛冶屋としての腕前もぐんぐん上がっているそうだ。

祭りの夜には、そんなヤンと踊りたがる娘は大勢いたが、ジュリアはその中には入らずいつも遠くから眺めていた。

娘達の噂で、どうやらヤンはマリアに恋をしているらしいと聞いた為だった。

大体、村の男でマリアに恋をしていない男などいるのだろうか?

マリアは村一番の別嬪との評判に違わず、とても美しい娘だった。

背が高く、象牙のような滑らかな肌と、長い睫に囲まれた水色の澄んだ瞳、さくらんぼのような赤い魅力的な唇を持っていた。

ジュリアはマリアのぴったりした胴着に包まれた豊かな胸や細いウエスト、白い頭巾の端から覗く金色の巻き毛をとても羨ましく思っていた。

しかし、マリアは美しさを鼻にかけたりせず、気立ての良い朗らかな娘だったので、娘達とも仲が良かったのだ。



 ジュリアは決して醜いという訳ではなかった。

ただ他の娘よりも背が低くほっそりした姿は、歳よりも彼女を幼く見せていた。

いつもは頭巾で覆い隠しているが、たっぷりした艶やかな栗色の髪と薔薇色の丸みを帯びた頬、鳶色の大きな瞳を持っていた。

可愛らしい口元には、絶えず微笑が浮かんだり消えたりしている。

少女は気づいていなかったが、その表情豊かな瞳に魅了された若い男も少なくなかったのだ。

そして、どうしても今日は一番にジュリアを見つけて求婚しようと思っている者もいたのである。

少しばかり気が強くお転婆だが、働き者で面倒見のよいジュリアを仲間の娘達は頼もしく思っていた。

家が農家だった為、ジュリアは幼い頃から動物の面倒を見るのに慣れていた。

最近は腰を痛めた母親の代わりに毎日乳搾りもしているのだ。

今は冬なので村にいるが、春になったら父親と二人で山に家畜を連れて行くのだ。

バター作りも子供の頃からジュリアの仕事だった。



 もしマリアのように美しかったら、ヤンに声をかけることもできたのに。

ジュリアは鼻を啜りながら、立てた膝の上に顎を乗せた。

聖バレンタインの祭りは、朝教会で行われる礼拝から始まる。

司祭の祝福を受けた若者達は、教会を出るといつものように家路にはつかない。

婚期を迎えた娘達は、角笛の合図を待って村の周囲に隠れる。

暫くすると若い男達が気に入っている娘を探しながら、村から野や林に向かって歩いてくる。

相手が見つかると、男は自分の帽子につけていた長いリボンを差し出し求婚する。

申し込みを受ける娘はそのリボンを自分の手首に巻く。

そして、二人仲良く手を繋いで村に戻るのだった。

だが、既に好き合っている者同士は、前もって隠れ場所を教えて一緒に戻ってくる。

マリアとヤンもそうなのだろうと悲しい気持ちでジュリアは思った。



 「ジュリア!」

急にすぐ近くで自分の名前を呼ばれた少女は、びっくりして飛び上がった。

立ち上がって見ると、一軒だけある村の居酒屋で働いているクロードが背伸びをして藪の中を覗き込んでいた。

ジュリアは、口が達者で偉そうにしているこの男が嫌いだった。

自分で貴族風だと言っている口髭を生やし、小さい体でそっくり返って歩く姿も嫌だったし、人を見下したような目付きも我慢ならなかった。

そして、何よりも女癖が悪いという評判だった。

以前、隣村の娘と連れ立って歩くこの男を何度も見たことがある。

クロードが腕を組んで歩くのは、会う度に違う相手だったのだ。



 あんたに用はないから向こうへ行ってくれという風に少女が首を振ると、男は帽子を取って何やらしていたが、やがて茨の上から手を伸ばしてきた。

「ジュリア、おまえを探していたんだ」

その手には赤いリボンがあった。

「お断りします!」

自分の手を背中に回してジュリアが叫ぶと男は顔を真っ赤に染めた。

「何を言っているんだ。俺が申し込んでやっているんだぞ。有難く受けたまえ。おまえみたいなちっぽけな女、他に誰も欲しがらないだろうが」

「誰も欲しがってくれなくて結構です。もういいですから、あっちに行ってください!」

男は眉を顰めながら、猫撫で声を出した。

「そんなことを言わないで、早く出ておいで。自分の店を持てる位、金が溜まったんだ。一緒に店を切り盛りする働き者の女房が必要なんだが、あまり美人で客にちょっかい出されたら困るし、俺より背が高い女は好みじゃない。おまえは全ての条件にぴったりなのだ」

「私は貴方の女房になんかならないわよ」

男は茨の茂みを見ながらどうしたものかと考えている様子だったが、やがて村に戻って梯子を取ってくると言って去って行った。



 ジュリアはあまりの屈辱に、顔がかっかとして涙が溢れそうだった。

初めての申し込みがあんな男からだったなんて、自慢にもなりゃしないわ。

どうしよう。

あいつが戻ってくるまでにここを抜け出さなければ。

背伸びをしたが、出られそうもない。

飛び降りた木の枝は遥か頭の上だった。

手に持った木靴で茨を掻き分けようとするが、押さえた傍からどんどん跳ね返ってきて、また顔を引っ掛かれてしまった。

そうしているうちにどんどん時間は過ぎていく。

もう、あの男以外だったら誰でもいいわ。

「誰か助けて!!!」

ジュリアは叫ぶが辺りはシーンと静かなままだ。

やがて声がすっかり嗄れてしまったジュリアは、涙の止まらなくなった目を押さえて地面に蹲る。



 バタバタと少女の隠れている茂みに近付いてくる足音がした。

あの男が戻ってきたのだわ。

ジュリアはますます小さく縮こまると、身を隠そうとした。

「ジュリア?」

がさと茂みが揺れ、上から声が降って来た。

「泣いているの?」

少女は地面に額をつけたまま、動こうとしなかった。

私の耳がおかしくなってしまったのだわ。

あの男の声が、ヤンの声に聞こえるなんて。

茨の上を何かで叩く音が聞こえ、やがて温かい手が少女の肩に触れた。



 男の膝の上に抱きかかえられたジュリアは、目をきつく瞑っていた。

目を開けて夢から覚めてしまうのが怖い。

男はくつくつと笑いながら少女の解れた髪を指で梳り、自分の袖で顔の汚れを掃ってくれる。

「相変わらずお転婆だな」

傷付いた額と頬に柔らかな唇が触れ、ジュリアは体をビクリと強張らせた。

我慢ができなくなって目を開くと、優しい青い瞳が自分を見つめていた。

「……ヤン」

愛しい名前を呼ぶと、唇が震えて涙が溢れてくる。

ヤンはジュリアを座らせると、真面目な顔をして後ろに放ってあった帽子を拾った。

薄紅色のリボンを取ると、膝の上に置かれたジュリアの手に握らせる。

「これを受け取って欲しい」

ジュリアは泣き顔に精一杯の微笑を浮かべると、頷いて自分の手首にリボンを巻いた。



 「僕のバレンティーナ、子供の頃から君のことがずっと好きだった」

「私のバレンタイン、私も貴方のことが好き」

男が黒い巻き毛の頭を屈ませて、少女のふっくらとした唇に接吻する。

少女は頬を染め、嬉しそうな微笑を浮かべると、鳶色の瞳で愛しい顔を見上げた。

木々の間を吹き抜ける風は冷たいが、愛し合っている男女には春の息吹に感じられる。

葉の散った栗林もまるで楽園のように思えた。

過ぎ去った時間を取り戻すように、暫く二人は抱き合ったまま動かなかった。

互いに話すことは山ほどあったが、時間はたっぷりある。

死が二人を別つまで、これからずっと一緒なのだから。

そして、確かめるようにもう一度微笑み合った二人は手を繋ぐと、栗林を出て仲良く村の方に歩いて行った。



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